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命を守るまちづくり

災害直後の気仙沼市(写真:気仙沼市)
災害直後の気仙沼市(写真:気仙沼市)

 繰り返されてきた災害時の教訓をどのように生かせばよいのか。南海トラフ巨大地震では最悪の場合、約32万3千人が死亡し、そのうち津波による死者が23万人を占めるという。経済的な被害に至っては、国家予算の2倍以上にあたる総額215兆円に上ると推測される。重要なのは、いつ起こるかもしれない大災害に備えた「命を守るまちづくり」である。医療機能を守るためには、病院の立地や耐震等の災害対策はもちろんのこと、まち全体で安心・安全を確保する仕組みづくりが必要となる。本稿では、宮城県気仙沼市並びに南三陸町の医療再生を改めて検証する。被災直後から復旧、復興にいたるまでの成果や課題を首長や医師、自治体職員に取材した。現場の生の声は、これからのまちづくりや災害現場、平常時の防災・減災の参考になるに違いない。

気仙沼市と南三陸町の医療再生

 2019年10月12日に関東から東北地方を縦断した台風19号は甚大な被害をもたらした。消防庁によると全国で96人が犠牲になり、4人が行方不明となっている。避難所での生活を余儀なくされている人は10の都県で合計2367人。7万3235棟の住宅が浸水や全半壊の被害を受けた。農林水産関係の被害額は32の都府県で合計2585億円にのぼるという。(同年11月14日現在)

 

 日本は世界有数の地震多発国であり、発生は高い確率で予測されてきた。それにもかかわらず、想定を超える自然の破壊力は備えを無力化してしまう。

 

 無残な記憶が新しいのが2011年3月11日に発生した東日本大震災である。津波が岩手、宮城、福島の3県を中心とする沿岸地域に壊滅的な被害をもたらした。2019年7月時点での震災による死者・行方不明者は約2万2000人、建築物の全壊・半壊の合計は40万4890戸に上り、避難者は震災発生直後のピーク時で40万人以上、2019年7月時点で5万271人と報告されている。内閣府は、震災による直接的な被害額を16兆~25兆円と試算。この額は、岩手、宮城、福島3県の県内総生産の合計に匹敵し、自然災害による経済損失額としては史上最悪と推計されている。

 

 津波被害が特に顕著なのが沿岸部の市町村で、死者・行方不明者・全壊家屋等の被害の90%以上を占めている。宮城県は震源地に最も近く、浸水域の人口が約33万人と3県で最大だったため、本県のみで阪神・淡路大震災を上回る犠牲者が出てしまった。同県北端に位置する三陸地域(気仙沼市と南三陸町)は再三にわたり津波に見舞われ、その都度、防潮堤や防波堤を強化してきたにもかかわらず守り切れなかった。深刻だったのが、「命を守る」初動時の対策において殆どの医療機能が壊滅的な被害を受けたことだ。

 

災害直後の気仙沼市街(写真:気仙沼市)
災害直後の気仙沼市街(写真:気仙沼市)

 繰り返されてきた災害時の教訓をどのように生かせばよいのか。南海トラフ巨大地震では最悪の場合、約32万3千人が死亡し、そのうち津波による死者が23万人を占めるという。経済的な被害に至っては、国家予算の2倍以上にあたる総額215兆円に上ると推測される。

 

 内閣府は大被害を軽減するためにハードとソフトの対策を公助・共助・自助で総動員することが必要とし、建物の耐震化をはじめ緊急地震速報に基づく高台への避難、水・食料・災害用トイレの備蓄等を訴えている。

 

 例えば地震による建物の全壊数は、耐震化率を現状の79%を100%に上げることで約2割まで、津波による死者数は、高台や津波避難ビルへの速やかな避難で約1割まで減らすことが可能という。こうした対策は確かに有効だ。一方で医療機能への備えは簡単ではない。被災した病院は十分な医療機器を備えておらず、診療の継続は困難だ。初動期におけるDMAT(災害派遣医療チーム)の支援体制は大丈夫なのか。通信や物流のインフラが滞る中、入院患者への投薬や外来患者への処方は続けられるのか。復旧が長期化した場合の生活環境や公衆衛生、特に感染症対策にはどう取組めばよいのだろうか。

復興が進む気仙沼港と市街地(2019年10月)
復興が進む気仙沼港と市街地(2019年10月)
防潮堤の建設現場
防潮堤の建設現場
整備された気仙沼港での釣り人
整備された気仙沼港での釣り人

 そもそも重要なのは、いつ起こるかもしれない大災害に備えた「命を守るまちづくり」である。医療機能を守るためには、病院の立地や耐震等の災害対策はもちろんのこと、まち全体で安心・安全を確保する仕組みづくりが必要となる。

 

 本稿では、宮城県気仙沼市並びに南三陸町の医療再生を改めて検証する。被災直後から復旧、復興にいたるまでの成果や課題を首長や医師、自治体職員に取材した。現場の生の声は、これからのまちづくりや災害現場、平常時の防災・減災の参考になるに違いない。

南三陸町復興市のポスター
南三陸町復興市のポスター

病院は復興のシンボル

気仙沼市菅原茂市長インタビュー

菅原市長
菅原市長

壊滅的な被害を乗越え、復興への歩みを進める気仙沼市。災害直後の行動や医療の復旧・復興について菅原市長に話を伺った。

まずは災害発生時の状況と行動についてお聞かせください。

 極めて高い確率で宮城県沖地震が起こると予測されていたため、事前の想定はしていました。3月11日の大地震直後、全市民が津波の到来を直感したはずです。しかし、自然の力は想定をはるかに超えていた。誰一人として、あのような規模の津波は予期していなかったはずです。そして想像を絶する被害が出てしまいました。

 

津波による被害(写真:気仙沼市)
津波による被害(写真:気仙沼市)

 大津波の翌日の朝、直接防災無線で市民に呼び掛けました。「大変な事態ですが、救出に全力を挙げているので頑張ってください!皆で乗り切りましょう!」と。しかし、程なくバックアップの電源も切れてしまいました。今振返ると大事な行動だったと思います。救助を待っている人や命からがら避難所に向かう市民、到達したものの家屋が流されて茫然自失する市民に直接声を届けることができました。

 

火災による被害(写真:気仙沼市)
火災による被害(写真:気仙沼市)

  3月23日には災害FMが立上がり、毎日短時間ですが市民への呼びかけを続けました。しばらくして各避難所への紙面による「お知らせ」を毎日更新して配布できるようになったことと、対応が多岐に渡ってきたため、呼びかけは止めました。大震災発生後は災害対策本部長としてあらゆる災害対応にあたりました。当初専念したのが救出です。駆けつけてくれた東京消防庁や緊急消防援助隊、自衛隊の働きが特に目覚ましかった。津波と同時に大火災が発生したので、火災の消火と救出活動に尽力いただきました。

災害直後はどのような判断で指揮を執ったのでしょうか?

 初動時に首長が自己判断だけで采配を振るうことはありません。地域防災計画により、担当者やすべての行動が決まっているためです。大災害は同時網羅的に起こるのであり、すべてを把握できるとは限りません。災害本部を立上げ人命救出を優先しますが、同時に救助する側の安全も確保しなければならない。決められた担当者が決められた持ち場で日常訓練を生かし、その上で応用力を持って全力で救助を行うのが原則です。

災害対策本部(写真:気仙沼市)
災害対策本部(写真:気仙沼市)

  首長は想定外の課題、大きな課題、方向性などを適確に判断する。そして、関係者が最大の力を発揮できるよう環境を醸成することが大きな役割です。消防団の行動も同様です。救急車や消防車の台数は決まっており、できる事には限度がある。救急車が出動した後は、その人たちが稼働できる範囲でベストを尽くしてもらうしかないのです。

DMATを中心とする医療部隊
DMATを中心とする医療部隊

 ただ、ルールと現実の間で起こったこともありました。地域防災計画で消防団は津波到達時間の15分前に安全な場所に戻ることが決められていました。防潮堤を閉めに行ったとしても、15分前には戻っていなければならないのが一応のルールです。14時46分に地震があり、15時に津波が来る予報だったので、行ってはいけないことになる。でも何人もの団員は使命として現場に向かい、戻る途中で8人が犠牲になってしまいました。渋滞に遭ったり、使命感で道の誘導をしたりしている時に津波に飲み込まれたのです。

医療で特に重要なことは何だったのでしょうか?

 災害対応には、災害直後と復旧、復興があります。災害直後には、DMATを中心に医療部隊が発足し、市民健康管理センターを基地に活動していただきました。欠かせなかったのが毎朝のミーティングです。実際、DMATには大変助けられました。長期間の避難所生活など誰も想定していません。不足した薬品等の供給や地元医師会との連携にどれだけ貢献してくれたことか。各避難所への巡回医療も行った結果、3月中旬にもかかわらずインフルエンザの感染拡大やノロウイルスの感染はほとんど起きませんでした。その時思ったのは、避難所にはできるだけ多くの部屋が必要ということです。大部屋だけだと感染症のリスクが避けられません。その点、学校には体育館やたくさんの教室あり、トイレも十分備わっている。感染の恐れがある患者には部屋を移ってもらうことができました。

避難所となった学校(鹿折中学校)
避難所となった学校(鹿折中学校)

新しい市立病院について、経緯をお聞かせください。

 震災前から市立病院の新築は重要課題でした。旧病院は建設から50年近く経過して老朽化が進み、耐震性への不安があった。増改築を重ねたことで院内動線も複雑化していました。さらに駐車場が少なく利用者に不便をかけていたのです。

 

 2010年度に基本構想・基本計画を策定し、県の補助金20億円と合併特例債を活用して2017年度末の開院を目指すことになりました。事業費194億円の殆どが借金と一般財源です。ところが東日本大震災により、本市及び周辺地域の人口動態、医療環境が大幅に変化する可能性がでたため、計画の推進についてコンサルタントを活用して再度検証を行うことになりました。一方で、地域医療の復興を目的とする国からの財政支援が大幅に増えることになり、宮城県の地域医療再生基金を通して120億円が支給されることになったのです。そこで2014年2月に建築の入札を行ったのですが、震災後の資材や人件費の高騰により成立しませんでした。予算と入札額の間に46億円もの差が生じたのです。設計の見直しをしても高騰分には追い付かず、事業費は245億円まで膨らむこととなりました。時間が経つほど建築費が高騰する恐れがあった。いつまで経っても着工できない状況が懸念されました。

高台に建つ気仙沼市立病院の全景
高台に建つ気仙沼市立病院の全景

  新病院はまちの存続のシンボルです。医療は地域の生命線であり、避難所や仮設住宅で暮らす市民にとっては、生活の拠り所に他ならない。市長として、復興とこのまちの再生の意志を示さなければなりませんでした。特に医療の確保を明確に示すには、病院を建てなければならないと思いました。財源は大事ですが市民の問題ではなく、政治や行政の責任です。災害時には、財源は何とかなるという漠とした確信が意外と大事なのです。私の政策の中に病院を建てない選択肢はありませんでした。

 

 収支計画と返済計画を練り直し、議会を説得して46億円を一旦市の起債で賄うことにしました。2014年8月には再入札を行い契約が成立。後処理になりましたが増額分の追加助成を国に要望し、2015年8月に47億7千万円の増額が決まりました。念願の新病院を開設できたのは2017年11月のことです。

新病院の主な特長は何でしょうか?

 立地は計画通り津波被害を防げる現位置とし、病床は人口減や入院日数短縮に伴う実質稼働数を鑑み340床に減らし、内48床を回復期とリハビリ病床にしました。市民の要望が多かった駐車場は668台分を確保し無料としました。

 

 病院には災害対策を随所に取り入れています。例えば、2階吹抜けの階段から1階への階段は、勾配を緩めて災害時に患者や物を台に乗せて搬送できるように設計しました。停電に備えた自然採光や自然排煙もその一環です。また、旧病院では看護学校が別々の建物でしたが、災害発生時に看護学校も含めて災害拠点病院として機能するよう、免震化した病院の最下層に合築しています。

気仙沼市立病院1階エントランスホール
気仙沼市立病院1階エントランスホール
1階うみねこホール
1階うみねこホール
1階外来診察室待合
1階外来診察室待合

復興への課題についてお聞かせください。

 復旧・復興の過程で壁になるのが制度です。東日本大震災は、制度と実際の乖離をどう埋めていくかの戦いでもありました。首長として経験的に言えることが二つあると思います。一つが、理不尽なことは必ず解決されるし、しなければならないということです。おねだりはいけません。いつまでも続く補助金を期待しても無理です。でも「この人とあの人にどうして差がつくのか」、「こっちがいいのにあっちがダメ」と言う理屈は通りません。必ず解決されます。

 

 もう一つは、直接市民に対して説明できないことも解決されるということです。国や県から「市長、それはこういう理由があってできません」と説明されたとき、私は「それを避難所で市民に言えますか?」と訊ねる。国や県は現場から遠いため、決断するのに時間がかかりますが、政治の力も加わり、上部機関で検討され、解決策が提示されます。「不公平や被災者に説明がつかないことは解決すべきだし解決される」という考え方を全国の首長をはじめ国や県に再認識し共有していきたいと思います。

プロフィール

菅原 茂(すがわら しげる)

1958年 宮城県気仙沼市生まれ

1980年 東京水産大学(現東京海洋大学)水産学部卒業

1980年~1991年 株式会社トーメン(現豊田通商)勤務

(うち1987年~1991年はオランダ王国ロッテルダム駐在)

1992年~2006年 株式会社菅長水産勤務

2007年~2009年 自由民主党宮城県第6選挙区支部

         (小野寺五典事務所)勤務

2010年 気仙沼市長就任

2018年 3期目就任

災害拠点病院の機能と役割

佐藤課長
佐藤課長

南三陸町を含む沿岸部の医療施設が津波による壊滅的な被害を受ける一方、奇跡的に大きなダメージを免れたのが旧気仙沼市立病院である。地域の中核病院並びに災害拠点病院としてどのように医療サービスを提供できたのか、被災時の状況を踏まえ災害対応の成果や課題について取材した。

立地と構造・設備面での被害

 津波は病院の敷地周辺まで押寄せかろうじて止まった。同病院事務部総務課長の佐藤昭一氏は「病院が海岸から約2.5km離れていたとはいえ、高台の硬い岩盤に建っていたことが幸いした」と振返る。

 

 地震の影響はどうだったのか。耐震構造は一部で、全体の約6割は耐震強度基準が設定される以前に建設・増築されていた。被害場所の多くはそうした初期建設棟に集中し、外壁コンクリートの剥落や内壁・床のひび割れ、敷地の地盤沈下や亀裂を生じさせたが、構造的に病院の機能を損なうほどではなかった。

 

 設備面では水道が使え、トイレは浄化槽だったので衛生に問題は無かった。「最低限の機能は維持していたのですが、問題は電力でした」。自家発電に切り替えたものの燃料の備蓄が十分ではなく、重油の供給できなかったためだ。 幸い、津波で流れてきたタンクローリーがあり、重油を抜取ることができたという。ところが発電機二機のうち一方がオーバーヒートしてしまう。「壊れる寸前で止める必要があるときに電気が復旧したのです。まさに綱渡りの状態でした」。

高台に建つ旧市立病院
高台に建つ旧市立病院

 道路とともに通信手段も遮断された。宮城県の災害拠点病院にはMCA(Multi-Channel Access)無線が配置されていたが、気仙沼医療圏は基地局が遠いという理由で未整備だったのだ。衛星携帯電話を代替配備したものの、受診はできるが発信できないという不具合が発生。唯一の手段が翌日到着したDMATの衛星携帯電話だった。電話回線が復旧するまで、市役所に設置されたau by  KDDIの移動基地局や県庁対策本部と市役所間のホットラインを併用し、定時連絡や外部との通信を行った。「通信手段は多重化した整備と、日常のメンテナンスが必要とつくづく思いました」。

病院に押し寄せる津波
病院に押し寄せる津波

 ヘリポートも使えなかった。旧気仙沼市立病院では湾岸沿いの商工岸壁や広域防災センターをヘリポートとして定めていたためだ。代替地として、市立病院から約8km離れた五右衛門が原を利用し、約80名の患者をヘリ搬送した。「災害拠点病院にとって、敷地内のヘリポートは必須条件です」と佐藤氏。

 

 被災の長期化で底をついたのが食料の備蓄だ。非常食は1日分、穀物は2日分しかなかった。活用したのが報道だ。3月14日のNHKの取材時に「食料、特に米があれば助かる」と訴えたところ、全国から米が寄せられた。「これだけ広域に津波被害が及ぶと、国や県からすぐに援助物資は届きません。救援物資の調達にはメディアの有効利用が重要だと気づきました」。

医療現場の状況と対応

 建物や設備の損傷が致命的ではなかったとはいえ、現場は混乱を極めた。翌日、水がある程度引き道路が通れるようになると、薬を流された大勢の患者や避難所を求める人々が市内および南三陸町等から押し寄せるようになる。外来待合ホールは人で溢れ、病院機能に支障を来すことが危倶された。不幸中の幸いだったのは、496名の病院スタッフ全員が無事だったことだ。災害拠点病院としての準備も万端だった。トリアージ訓練を怠らず「気仙沼市立病院集団災害マニュアル」も備えていた。

 

 災害医療コーディネーターには、県から任命されていた脳神経外科長があたった。初動対策はマニュアルに沿い、災害対策本部やトリアージポスト(※)を設置。被災患者の受け入れ態勢を整え入院患者を高層階へ誘導・搬送するとともに、避難してきた市民を高台の避難所へ誘導した。翌日には市内最大の避難所となった総合体育館)ケーウエープ(と病院の間に定期便を運行し、避難者を移送した。外部からの支援も迅速で、3月11日夜には東京消防庁、翌日朝には自衛隊、夕方には東京都DMAT他医療チームが続々と到着。機動力を活かした広域の患者搬送が陸路と空路で行われた。

トリアージポスト
トリアージポスト

 喫緊の課題は薬だった。院外の調剤薬局すべてが被災したため、在庫分で数日を凌がねばならない。だが、患者が殺到する中で外来を再開すれば薬はすぐに底をついてしまう。そこで外来を全科共通とし、内科医と外科医がどの科の処方にも対応することにした。原則診察は行わず、前回の処方を短期間繰返す方法もとった。さらに短期間休薬しても差支えない薬は出さす、効果が類似している薬は在庫に余裕のあるものに変えるといった工夫をした。

 

 急性期医療については、緊急の患者を受入れはしたが、治療を継続できる確証がなかったため、重症患者は仙台や札幌等の病院に搬送した。通院患者の中で同様の措置を要したのが透析患者だ。本院は近隣の医療機関からを含め180人の人工透析患者を受入れていたが、病院機能が不確実な状況下で治療を継続するのは危険だ。そこで3 月下旬には、104 人を北海道や千葉県等に搬送することになった。

薬を求める患者
薬を求める患者

 急性期が過ぎるとDMATの活動が終了し、代わりに医療支援チームが全国から訪れるようになる。避難所での健康維持と同時に深刻だったのが在宅介護の高齢者だ。訪問看護ステーションが被災し利用者のデータも失われていた。ライフラインが途絶える中、孤立する状況が多発していたのである。スタッフは記憶を頼りにケア対象者の安否を確認。被災したクリニックの医師と連携して「気仙沼医療支援隊」を組織し、在宅高齢者の診療・看護にあたった。顔見知りの医療従事者の訪問は、高齢者への安心にもつながったという。

 

 佐藤氏は「過去の度重なる災害により、市民の防災意識は高く市役所も危機管理を徹底してきた」と語る。しかし東日本大震災の津波はあまりにも大規模で、想定域を超えていた。今後はそうした災害にも備えた災害医療対策を広域で講じなければならないだろう。

※トリアージポスト

医師や救急救命士がいち早く負傷者の重傷度・緊急度判断する場所。負傷者を最優先治療、非緊急治療、軽処置、不処置に振り分ける。

生業は低地、住まいは高台

佐藤町長
佐藤町長

震災から8 年と半年が経過し、南三陸町の復旧事業は防潮堤の建設を残してほぼ終了した。これまでの経緯を踏まえ、医療再生や今後起こり得る災害対策等について佐藤仁町長に話を伺った

佐藤町長は少年時代、チリ地震津波に遭われたと聞いています。その時の体験が東日本大震災でどのように生かされたのでしょうか?

 あれは1960年、小学校3年生の時でした。町では41人が犠牲になり、自宅も流されてしまった。200m離れた高台にある志津川高校に避難すると同時に、次々と津波に飲み込まれる家屋を目のあたりにしました。避難所の環境は劣悪で、しばらくしてから母の実家に身を寄せることになったのですが、そうした体験がトラウマとなりました。

 

 震災に備えて46箇所の避難所を指定していましたが、24箇所が被災したため、臨時の避難所を設けた地域もありました。私の心にあったのは、あの時のような避難体験を町民に強いてはならないということです。当初は電気や水道をはじめプライバシーも情報もありません。しかもノロウイルスによる感染症が発症してしまった。水や食料はなんとかなるのですが、問題はトイレです。すぐ一杯になってしまう。災害対策本部を設置した体育館前に重機で穴を掘り、大工さんに頼んで周囲に木柱を立ててブルーシートで囲み、汲取り式トイレを急設しました。

 

 一方の仮設住宅を作るのには時間がかかります。そこで二次避難を実行することにしました。避難対策班を立ち上げて調べると、近隣地区の温泉はキャンセルでガラガラ状態でした。早速大崎市や栗原市から温泉施設のリストを取り寄せ、交渉しました。「災害救助法」により、3食付きで1日一人当たり5千円が支給されることになっていたからです。100人の受入れだと1日で50万円になります。

災害対策本部(写真:南三陸町)
災害対策本部(写真:南三陸町)

 避難所で説明会を開き「仮設住宅ができるまで、そちらでゆっくり過ごしてください」とお願いしました。喜ばれると思っていたのに「俺たちを町から追い出すのか」とブーイングが起きてしまった。「強制ではありません、劣悪な環境からしばらくの間、温泉でゆっくりしてください。仮設住宅が完成次第、迎えに行きます」と説得を重ねた結果、1800人が応じてくれました。

 

 大崎市鳴子温泉に向かうバス20台に乗り込む時には、大勢が泣いていました。都落ちの気分だったのでしょう。ところが1箇月後に訪問すると、皆さん元気一杯。あれだけ反対していたのに「よく二次避難を決意してくれた」と褒められたのです。悲惨な現場を見なくて済んだことと、快適な環境で受入れ先によくしていただいたことで、すっかり馴染んでいる様子でした。後日、300名の受入れ先だった旅館からも感謝されました。廃業を覚悟していたところを継続でき、従業員も解雇せずに済んだためです。

復旧期から復興期、発展期に移行した中で特に重要な施策について、課題を含めてお聞かせください。

 まずは仮設住宅です。第1号を4月27日に設置し、19箇所に1183戸すべてを完成させたのが8月31日でした。まとまった土地の確保が難しい中、重視したのがスピードです。入居の順番は厳選な抽選にしたのですが、漏れた希望者からは不平不満が寄せられました。「役所が不正を働いた」というのです。「当選したのは町長の友達や役場職員の親戚」といった根も葉もない噂も広がり、対応に苦慮しました。抽選だと元のコミュニティが維持できなくなるとの指摘がありますが、場所や規模、設置日はバラバラです。すでに多くのコミュニティが離散している中、一つの団体を優遇することで大反対が起こることは目に見えていました。十人十色と言いますが、震災時は千人千色と言ってよい。そして一番困窮しているのは自分という意識がある。「私だけが大変なのだから先に仮設に入れてくれ」とか「物資を俺にだけ余計によこせ」といった声が私に集中しました。そうした個々人の要求に応えることはできません。首長として、復興事業の優先順位を第一に考えました。

仮設住宅(写真:南三陸町)
仮設住宅(写真:南三陸町)

 仮設住宅は衛生的ではあったものの、長屋で必要最小限の性能しか備えておらず、隣人の鼾が聞こえるほどでした。一方で、そうした環境では隣人同士が親しくなり、おかず一品を分かち合うような付き合いが日常になります。仮設住宅から本設の住居に移る際に新たな行政区に関するアンケートを実施したのですが、結果に少々驚きました。震災前の行政区を望む町民の割合が7割を占めるだろうと予測していたのですが、結果は5割だったのです。残りの半数の大半が仮設住宅で育まれた新たなコミュニティを希望したのです。肩を寄せ合い助け合ったことが絆を育んだのでしょう。

 次に重要なのが本設の住宅で、場所は高台に決めました。当地は120年間で4度の津波被害に見舞われています。ほぼ30年周期で尊い命が犠牲になっているのに、結局体験が十分に生かされていなかった。今回の震災では、災害本部が置かれた体育館のホールを遺体安置所にしました。そこでは毎日遺体が搬入されます。手を合わせて焼香するのですが、筆舌に尽くしがたい惨状でした。五体満足な遺体が無いのです。この修羅場を将来の子どもたちに絶対味合わせてはいけません。何のために東日本大震災で辛酸を舐めたのか。そこで「命を失わないまちづくり」を掲げ、高台移転を決めたのです。

 沿岸地域の土地を手放してもらうため、説明会を1週間で23回行いました。「将来、買収出来るかわからないが、命を守るために決心いただけないか」と訴えたところ、全員が賛成してくれました。「鉄は熱いうちに打て」のとおりです。これが1年後だったら、「先祖伝来の土地に対して何を言っているんだ」と反対されたかも知れません。翌年4月、「命を守る」を復興計画の理念にして高台移転を正式決定しました。

高台移転(写真:南三陸町)
高台移転(写真:南三陸町)

 沿岸地域は災害危険区域に指定し、住居利用を禁じました。生業は低地、住まいは高台ということです。山を削り830戸分の住宅用地と730戸の災害公営住宅を整備し、1500戸強が移り住めるようにしました。高台には、新しい役場庁舎も2017年9月に開庁しています。削り出した土で低地を10.6m嵩上げし、卸売市場や工場等の生産施設をはじめ、「南三陸さんさん商店街」等の商業施設の用地にしました。

南三陸さんさん商店街(写真:南三陸町)
南三陸さんさん商店街(写真:南三陸町)

  今思えば、よく決心したものです。相当な費用が見込まれるにもかかわらず、当時の民主党政権では復興の財源については何も決めていなかったのですから。国が高台移転の予算をつけない決定をしていたら、町は大変なことになっていました。

 

 高台移転の課題は、土地の登記でした。相続の未登記や共有登記の土地が多かったためです。法律上では権利者全員の許可を取得する必要があります。結局、担当職員がすべて処理するのに2年近くかかりました。幸いなことに国は来年、東日本大震災での教訓を基に土地登記の法律を改正する見込みです。

 

 書類の再整備も大変でした。役場が流されたため、紙類と電子データの殆どすべてを失ったからです。残っていたのは1週間前の住民・住基台帳と前年6月の戸籍データのみでした。そのままでは町民が無国籍になってしまいます。法務局にある戸籍を貸してもらい、何とか3月26日にプレハブの庁舎内に総務課をオープンしました。

南三陸町役場本庁舎
南三陸町役場本庁舎

佐藤町長は復興の目標に医療を最優先し、病院の再建を施設整備の柱に位置付けました。経緯についてお聞かせください。

 安全・安心な生活には安定した医療の提供体制が不可欠です。ところが震災後の数日間はまともな診療が出来ませんでした。イスラエルの医療支援チームが残してくれたプレハブ6棟と寄付で集まった医療機器を使って診療を再開したものの使い勝手が悪かった。受付棟から診療棟、薬局棟、会計棟まで移動しなければならなかったためです。「病人が一つの屋根の下で診療を受けられないのはおかしい」と、訪れる国会議員全員に窮状を訴えました。阪神・淡路大震災後の制度で医療機器を含めて3100万円が支給されるのですが、賄えるはずがありません。やっと、ある国会議員のおかげで首相官邸まで話が通り、日赤から建物に3億円、医療機器に3億円を拠出いただくことで仮設診療所を再開することができました。

 そして新病院建設では、台湾からの支援金が大きく貢献しました。震災から1年後に台湾赤十字の会長一行が来日し、大勢のマスコミを連れて仮設診療所を視察したのですが、そのニュースが台湾で放映され世論が後押ししてくれたのです。総経費56億8千万円の4割にあたる22億2千万円の寄付をいただくことができました。残り33憶6千万円は、国や県の補助金からです。

台湾への感謝を示す記念碑
台湾への感謝を示す記念碑

南海トラフ地震の可能性が懸念されています。東日本大震災の教訓を踏まえ、他自治体への提言をお聞かせください。

 復興事前準備です。被災を想定し、事前に何をするのか決めておくことです。例えば医療では糖尿病患者の対策があります。当町では40床の民間の透析病院があったのですが津波で倒壊してしまいました。避難所では透析ができず、患者にとって命に係わります。自衛隊機で札幌に移送された患者がいたことを後で知りました。大都市災害では相当数の透析患者が被災しますが、どこで受け入れてもらうのでしょうか。当院ではすでに41人の透析患者がおり、受入れ可能な人数は数名だけです。どの病院が被災し、どの病院で何人の患者を受け入れてもらうのかを想定しなければなりません。

 

 仮設住宅も同様です。津波の高さを計算すれば被害に遭う範囲や戸数が想定できます。公有地でも私有地でもよいので、ライフラインが供給できる高台の場所を事前に決めておくべきです。その際、埋蔵文化財に気を付けなければなりません。当町では6箇所に埋蔵文化財があり、断念せざるを得ませんでした。

 

 復興事前準備は財源面のメリットもあります。南三陸町には町管理の漁港が19あり、震災後に6つに集約しようと試みました。船の数や水揚げ量、担い手の数が減ったためです。漁港間の距離は500m足らずなので、影響も少ないと考えました。ところが、災害復旧では原形復旧が原則です。事前に集約を決めておけばこうしたことは起こりません。東日本大震災は特例で復興費用は全額国の負担でしたが、通常の災害では1割程が自治体負担です。今後、特例はあり得ないでしょう。南海トラフ地震の被害額は桁違いで、全額国費にしたら国の財政が持たないと思います。

 

 地では当初、復興費用を3千億円と試算しました。1割負担だと300億円にもなります。震災前の一般財源、つまり自由に使えるお金は1億円足らずでした。毎年1億円返済しても300年間借金を払い続けねばなりません。これでは財政破綻と同じです。復興事前準備は3年前から総務省が提唱していますが、なかなか浸透していません。各市町村は具体策を早急に検討するべきです。

プロフィール

佐藤 仁(さとう じん)

1951年 宮城県本吉郡志津川町生まれ

1970年 宮城県仙台市立仙台商業高等学校卒業

1992年 旧志津川町議会議員に当選

2002年 旧志津川町長に就任

2005年 志津川町と歌津町との合併に伴う初代南三陸町長に就任

2017年 南三陸町長4期目就任

災害医療コーディネーターの役割

西澤副院長
西澤副院長

東日本大震災から医療機関はどのように復興したのか、健康まちづくりにおける役割は何か。災害医療コーディネーターとして陣頭指揮を執った南三陸病院副院長の西澤匡史氏を取材した。

東日本大震災発生から一週間後までの経緯

 

 震災当日、宿直明けの非番で高台の自宅に戻っていた西澤氏は突然大きな揺れに見舞われた。直後に大津波警報が鳴り響いたものの、放送設備が被災し途切れてしまう。高台からは海や低地が見渡せず、停電でテレビは映らず携帯もつながらない。ラジオが頼りだったが、病院の被害は放送されなかった。「情報が入らないまま、幼い我が子を気遣いながら不安の中で夜を過ごしました」。

 

 メールで被害状況を知ったのは、翌朝のことだ。自宅近くの総合体育館「ベイサイドアリーナ」に駆付けると災害対策本部が設置され、被災者で溢れていた。大勢の人々が横たわっているにもかかわらず医師が一人もいない。「様子を見に行ったつもりが、そのまま診療することになったのです」。こうして西澤氏と災害医療との関わりが始まった。災害対策本部と連携し陣頭指揮を執る立場になったのだが、災害医療の知識はゼロに近い。「医師として何ができるのか、私は町民のためになることに全力を注ぐ覚悟を固めました」。その後いろいろな助言や指示があったが、町民第一主義を最後まで貫き、取捨選択していったという。

被災した志津川病院(写真:南三陸町)
被災した志津川病院(写真:南三陸町)

 避難所内の救護所は混乱を極めた。町内すべての医療機関が被災したため、医療機器や薬は手に入らない。聴診器すら無いため、文字通り手当のみで診療を続けた。患者を励ましながら苦しい状況を凌いでもらう一方、搬送を擁する重症患者をトリアージしていった。翌日にはDMATがヘリコプターで到着したが、任務は医療情報収集で患者を救助することができない。窮状を伝えてもどうすることもできずに帰ってしまった。(後にDMATの任務に応急治療や搬送等が加わることになる。)そうした中、西澤氏は一人で1日300人~400人もの患者を診療し続けた。震災4日目になると、隣接する登米市から先輩の医師が応援に駆け付けてくれ、5日目には「国境なき医師団」が到着。道路が開通した一週間後には次々と医療支援チームが集結し、その数は20に達した。

 この段階で西澤氏の役割が診療から医療支援チームを統率するコーディネーターへと変わる。情報共有に不可欠なのがミーティングだが、混乱する現場ではうまくいかなかった。そこで活用したのがテントだ。チームの代表者だけを集めて毎日ミーティングを行い、収集した情報を基に指揮系統を西澤氏に一元化。救護所の位置やニーズを把握し、医療資源を適切に配分していった。一方で救護所以外にも目を向けた。大勢の被災者が、内陸の親類や知人宅に身を寄せていることがわかったためだ。事情を聴くと、津波で車を流され交通手段がないという。そこで、歩いて行ける距離にある公民館等にも救護所を設けることで、早い段階で医療の空白地を解消していった。

ミーティングで活用したテント(写真:南三陸町)
ミーティングで活用したテント(写真:南三陸町)

 「陣頭指揮に追われる中、重圧と同時に『これはチャンスかも知れない』という気持ちが湧いてきました」と西澤氏。まったく新しく町を作り直す希望を抱きながら人一倍頑張ることを決意したという。

 

 ところが状況が落ち着いてきたかに思えた3月下旬、避難所でノロウイルスが引起す感染性胃腸炎が発生してしまう。断水時の衛生対策に用いたアルコール消毒がウイルスに効かなかったのだ。そこで感染症の専門医の指導のもと、自衛隊の協力を得て簡易手洗い場を設置すると同時に共用部を次亜塩素酸ナトリウムで消毒。保健師には各避難所での衛生教育と汚物の適切な処理を指導してもらった。

薬品を手配する医療支援チーム(写真:南三陸町)
薬品を手配する医療支援チーム(写真:南三陸町)

 感染症の発生は避難所生活では死活問題だ。蔓延すると閉鎖を余儀なくされるが、そうなると行き場所がなくなってしまう。相反する現状にも苦慮した。当初は腹痛や下痢の症状が出た患者すべてを隔離する考えだったが、許容範囲数を超える恐れがあった。また、隔離患者に対する周囲の目にも配慮しなければならない。そこで「南三陸基準」として下痢の基準を緩めることとし、一定の回数を超える患者には居住スペースを離れてもらった。「こうした総合的な対策により、アウトブレイクを抑え込むことができたのです」。

医療支援チームの撤収

 西澤氏は、震災医療コーディネートの重要課題は2つあると指摘する。前述した医療支援チームの采配と医療の安定供給を果たした後の速やかな撤退だ。「随分早いと思われがちですが、医療支援チームは自らが多忙で、活動期間は限られています」と西澤氏。実際、1ヶ月後には慢性疾患が増えていった。薬が安定供給されると受診患者数も減り、多い時は一日40人だったのが10人程になっていた。この機を捉えて撤退に移るのだが、簡単には進められない。医療サービスが減ることに多くの町民が不安を覚えるためだ。西澤氏らは説明会で理由を説明し、代わりに保健士を巡回させることで同意につなげていった。

 医療支援チームの撤退には3つの条件を課した。1つ目が医療の安定供給だ。医療や薬の供給が十分なことと救急車の搬送件数や急性疾患の受診者の数が平時の水準に戻っていることで、この条件は3月末に既に達成していた。

 2つ目が地元医療機関の再開だ。しばらく望めないと諦めかけていたところに、思わぬ助け舟が届く。3月下旬から2週間の受入れが決まっていたイスラエルの医療支援チームによる支援だ。検査ができない状況を訴えると、医療機器を備えたプレハブ6棟の建設にくわえ、診療には軍医15名がマンツーマンの通訳付きであたってくれた。「おかげで重症患者を二次救急に搬送する体制が整いました」。帰国に際して検査機器の寄付を願い出たが、大部分を持ち帰ってしまった。ただしプレハブは残したままだった。そこで考えたのが、日本の医療機器メーカーからの寄附だ。メールを送信したところ、心電計やエコー等さまざまな寄付に応じるメールが届き、わずか一週間後の4月中旬には診療所を開設することができた。

イスラエルの医療支援チーム(写真:南三陸町)
イスラエルの医療支援チーム(写真:南三陸町)
医療機器を備えたプレハブ6棟(写真:河北新報社)
医療機器を備えたプレハブ6棟(写真:河北新報社)

 3つ目が通院手段の確保だ。当時は公共交通が無く、車もガソリンも入手困難だった。診療所に通えなければ救護所を閉鎖することはできない。困っていたところ、5月の連休明けに小学校が再開することを知る。「送迎にスクールバスを運行しており、これを日中の空き時間に通院用に利用できないかと考えたのです。早速背中合わせで活動していた町長に直談判し、許可を得ました」。5月14日には医療支援チームが完全に撤退。町の医療は約2カ月の災害医療期間を経て、自立を果たすことになる。

周辺自治体や大学病院との連携

 自立といっても、周辺自治体や大学病院の協力は欠かせなかった。診療所には病床が無いので、近隣病院との連携が必要だ。雇用の維持も課題だった。志津川病院では大勢のスタッフを抱えていたが診療所ではそれほど需要がない。とは言え近隣の病院で雇入れてもらうわけにもいかない。近い将来に病院を再建する際、元のスタッフが必要になるからだ。そこで当時の院長が登米市に協力を依頼。同市米山地区の病院に39床の空き病棟が出ていたので、そこを借りて志津川病院として入院患者を受け入れると同時に、雇用を維持した。

 

 自治医科大学や東北大学等の協力も大きかった。元々医師不足の中、今までの医師だけで復興を果たすのは困難だ。特に高齢者の慢性疾患患者が多い同町では、高血圧症や糖尿病の新規発症が増加傾向にあった。そこで導入したのが、自治医科大学(循環器内科苅尾教授)が開発したクラウド環境での循環器リスク予防管理だ。同システムは、阪神淡路大震災を経験した苅尾教授が「震災後は血圧が上昇し心血管イベント(※)が増える」ことに着目し、それを抑制するために開発された。ICTを利用して集積した血圧と脈拍のデータを自治医科大学で解析し被災現場の医師に報告するもので、ピンポイントでのケアが可能となる。「震災急性期の利用を想定したシステムでしたが、長期にわたるイベントの発症抑制に有効であることがわかり、8年を経過した現在も使用しています」。対象者は平均年齢70歳を超えた351名。当初は平均血圧が150を超えていたが、管理の結果、120代にコントロールできているという。

新病院の設立と地域医療

 2015年12月、南三陸病院・総合ケアセンターがオープンした。計画に携わる中で西澤氏が重視したのが、保健と医療と福祉を三位一体で整備することだ。実は近隣自治体に先行例があった。涌谷町医療福祉センターで、ワンストップサービスの先進的な試みとして注目していたという。「以前は病院で介護保険を利用する場合、離れた場所で申請しなければなりませんでした」と西澤氏。新病院では医療保健福祉行政が一緒になっており、虚弱な患者でも負担なく手続きができる。「保健福祉部門の担当者とは顔の見える関係でしたが、距離が離れていたので頻繁には会えませんでした。今では会議や相談の回数が増え、連携が一段と強くなっています」。

南三陸病院・総合ケアセンター南三陸(向かって左が病院、右がケアセンター)
南三陸病院・総合ケアセンター南三陸(向かって左が病院、右がケアセンター)
 両施設を結ぶ共有空間「みなさん通り」向かって左が病院、右がケアセンター
両施設を結ぶ共有空間「みなさん通り」向かって左が病院、右がケアセンター
保健福祉課のカウンター(奥)
保健福祉課のカウンター(奥)

 一方で相変わらず深刻なのが医師不足だ。限られた医療資源を有効に使うには、どのような方法がよいのか。西澤氏は「町を一つの病院に見立て、保健・医療・福祉の連携のもと多様なニーズにきめ細やかに対応すること」と語る。そのために病院だけの医療ではなく、訪問診療を行うと共に施設の嘱託医の役割を積極的に担っている。「家庭や施設のベッドも利用すれば、少ない病床を効率よく生かすことができます」。例えば介護保険施設には嘱託医として月2回訪問。現場では対応が難しい微妙な症状を診ることで施設の負担を軽減している。施設側の安心感は病院との連携につながる。「以前は症状が安定した高齢者の受入れに時間がかかっていましたが、現在は改善しています。結果、急性期病床や療養型病床を効率よく回転できるようになりました」。

 

 広域での連携が病院同士による「病病連携」だ。同院は高度・専門医療を必要とする患者を石巻赤十字病院や気仙沼市立病院に搬送する一方、急性期治療を終えた患者を積極的に受け入れている。一般的にはこうした連携においても、受入側の病院や診療所が慎重になることが多いという。その点、同院では準備時間をできる限り短縮し、急性期病院に患者が滞留しないように協力している。「ベッドの回転を速くすることが人命救助につながる」と西澤氏。地域医療における機能分担の目的がそこにあるのは言うまでもない。

※心血管イベント

心臓に血液を供給する血管が詰まって細くなることで生じる脳卒中や心筋梗塞等

プロフィール

西澤 匡史(にしざわ まさふみ)

1997年 自治医科大学を卒業後、同年国立仙台病院で初期研修

2002年 自治医科大学呼吸器内科で後期研修

2003年より公立志津川病院内科医長、内科診療部長を経て

2012年より南三陸病院副院長